翻訳家インタビュー
 
日暮雅通さんの巻
ミステリ好きの理科少年
思いがけぬ転身
多忙を極めた会社員時代
翻訳家として独立
児童書の楽しみ
下訳と翻訳ワークショップ
どれも気に入った本ばかり
訳書リスト ミニ写真集  

ミステリ好きの理科少年

 日暮さんにとっての読書の記憶は、小学校の高学年にさかのぼる。最初に夢中になったのはホームズやアガサ・クリスティといったミステリで、いわゆる黄金期の名作をこの時期に次々と読破している。ただし本当に熱中していたものは別にあった。理科工作である。

「中学に入るころには真空管ラジオを組み立てたりしてましたね。実家が千葉なんですが、秋葉原にはよく通っていました。まあ、今でいうオタクみたいなもんですよ(笑)」

 一方で読書欲も盛んで、SFにも手を伸ばすほか、高校に入ってからは学内にミステリ研究会を設立したりもした。それでも、将来の進路ははっきりと決めていた。

「もう完全に、物理の研究者になるつもりでしたね。大学を卒業して、そのまま残って、研究を続けるんだ、っていう。小学校の頃からそう思っていた」

 当然、大学は理工学部へと進学。研究者という目標に順調に近づいていった。その一方で大きな存在となったのが、入学と同時に加入したミステリ研究会だった。熱心なミステリ読者が集まっては好きな作品の話で盛り上がる毎日で、日暮さんもそんな周囲に刺激を受け、会報に評論を執筆するほか、原書も手にするようになった。翻訳を始めたのもこの頃だ。

思いがけぬ転身

 学業と趣味を両立させていた日暮さんだったが、3年生の時に、同好会の先輩から、翻訳に興味があるのなら、ということでアルバイトを紹介される。出向いたのは、超常現象の研究家として知られる翻訳家で、同じ千葉に住む南山宏さん(元『SFマガジン』編集長)の自宅だった。

「さまざまな英文資料から超常現象の事例を訳してまとめる作業だったんですが、それをやっているうちに翻訳の面白さがだんだん分かってきたんですね。そういう意味では、南山さんはぼくにとって最初の師匠です」

 そのほかにも卒業してライターになる先輩がいたり、同好会の集まりにプロ作家が遊びに来てくれたりと、周囲からの刺激は強くなる一方だった。そして、大学最後の年に一大転機が訪れる。これも先輩の紹介で、本格的な翻訳の仕事をやってみないかという誘いだった。

 聞けば、大部のホームズ研究書を分担して訳すのだという、それはそれは魅力的な仕事だった。だが理系の大学4年生にとって、なんといっても大切なのは卒業研究である。単に卒業がかかっているだけでなく、将来のキャリアにも大きくかかわる重要なファクターだ。そして、卒業研究と翻訳との両立は事実上不可能だった。どうしてもやりたい仕事を取るか、子どもの頃からの目標を取るか。それが厳しい選択だったことは、想像するに難くない。

 結局、日暮さんは翻訳を取った。その時の心境はというと、

「あんまり考えてなかったですね。ただ、ぼくの行ってた大学では、卒業研究をしなくても単位さえ取っていれば卒業できたんです。でもそれだと、研究者として大学に残ることはできない。それで結局、物理学者になるのはやめて、翻訳に専念したんです。もちろん、その仕事をやっただけではプロの翻訳家になれる保証はないんだけど、そっちを選んだ」

 まさしく、運命の分かれ目だった。

 次に日暮さんが考えたのが、一般企業への就職だった。やはり本の世界で仕事をしてみたいという気持ちから、出版業界を目指すことに。ところが、入社試験が始まる頃の10月になって、肝臓を痛めて入院。当然、就職活動はすべて諦めるよりほかなかった。

 予期せぬアクシデントに襲われた日暮さんだが、それでも運命に見放されたわけではなかった。回復を待って、年明けから就職活動を再開したところ、新聞で著作権エージェンシーの求人広告を見つけたのだ。さっそく応募し、みごと採用に。出版業界への就職という当初の目標を達成したわけで、ご本人も自覚する「運の良さ」ということになろうか。

多忙を極めた会社員時代

 著作権エージェンシーは、日本の場合、外国の本の著作権を扱うことが中心となる。当然、買い手は日本の出版社などだ。会社には海外から売り込みを求める本が次々と送られてくるほか、すでに売れた本については権利をきちんと管理しなければならない。要するに、とても忙しい仕事なのである。

日暮さんもその例に漏れず、多忙な毎日を過ごした。原書を読んで出版社に営業をかける一方で、契約書など膨大な量の書類を処理しなければならない。大学が理系ということもあって、専門的な英語教育をほとんど受けた経験のなかった日暮さんだが、この時期に仕事を通じて語学力が大いに伸びたという。

入社から1年ほどすると、さらに別の仕事も回ってきた。勤め先がコンピュータを導入することになり、その担当を命じられたのである。当時はようやく職場のOA化が話題になりだした頃で、パソコンなどはマニアの遊び道具でしかなく、出版業界でも一部の大手出版社が大型機を財務処理に導入している程度だった。だが理系とはいっても、専門が物理だった日暮さんにはプログラマーとしての経験があるわけではない。

「大学の授業で使ってはいたんですけどね。プログラムの記憶媒体が紙テープから穿孔カードに変わった頃で、計算機センターに通っていろいろやりましたが、その程度でしたから、理論は知っていてもシステム作りはほとんど素人ですよ。それでも、なにしろ理系だったんで、お前やれってことで」

 日暮さんに任されたのは、それまでカードや台帳で管理していた出版契約書や原書情報を電算処理するシステムの構築だった。コンピュータに関する講習を受けるなどして勉強する一方、メーカーの担当者と共同で作業にあたり、なんとか完成までにこぎつけた。もちろん、通常のエージェント業務をこなしながら、である。

「システム作りの途中に、情報処理の国家試験があったので、その資格を取ったりもしました。もうこのまま、こっちの方向にいっちゃうのかな、なんて思うこともありましたね」

結局、この会社には6年間勤めた。仕事の性質上、翻訳家や編集者との交友が密で、出版業界へのつながりが持てるという意味ではまたとない職場だったが、思い切って転職を決めた。移った先は理工系の出版社で、編集者としての就職である。もう少し、本の作り手に近い立場になってみたい、というのがその動機だった。

翻訳家として独立

 編集者時代に担当したのはコンピュータの関連書だった。当時はようやくパソコンが仕事に使えるようになった頃で、一種のブームといってもいいくらい入門書が大量に出版されていた。当然、ここでも仕事に忙殺される日々が続く。

「メーカーからソフトや機械を借りてくるんですが、それをライターに渡す一方で、編集部でも確保しておくんです。掲載するプログラムの動作確認とか、内容をこちらでもチェックしておかないといけないので。間違いとかあると、読者からクレームの電話がたくさん来ますから」

 単に本をたくさん出しているから大変、ということでもない。なにしろ、パソコン関連本では小さな間違いが致命的になる。人間なら誤植でもだいたいの見当がつくが、コンピュータはそうはいかない。カンマとピリオドの違いだけでもまったく別の結果が出てしまうのだ。自然と、細かいところに気を使う作業が増えることになる。

 そんな中でも執筆活動は続けていたが、本業の合間を見ての作業では、どうしてもこなせる量に限界がある。やりたい仕事をもちかけられても、勤めの都合上断るしかない場合もあった。こうなると、どうしても先のことを考えてしまう。

「最初に就職した頃から、翻訳家になりたいなっていう気持ちは、漠然とはあったんです。ただ、翻訳の仕事もずっと続けてはいたんですが、すぐに独り立ちできるほどの仕事量ではなかった。そんなわけで出版社に移ってからも二足のワラジを続けていたんですが、10年くらい経ってから、そろそろ独立してもいいんじゃないかって気持ちになったんです」

 結局、出版社は4年ほどで退社し、フリーランスになることを決めた。長年つづけた会社員生活ともお別れである。

 それからは自由な時間が増えたものの、生計を立ててゆく必要にも迫られた。訳書が何冊か出ることになってはいたが、印税もすぐに出るわけではない。日暮さんは仕事の幅を広げるべく、コンピュータ系企業の広報誌などでライターの仕事も始めた。

「今は体力的なこともあって遠ざかっていますが、ひと頃はよくやっていました。カメラマンを連れての企業取材が多かったかな。コンピュータが中心ですが、バイオテクノロジーの取材とかだと、知的好奇心をかきたてられたりして楽しかったですね。それから後々の翻訳にも役立つかもしれないという気持ちもありました」

 理系出身で大型機の時代からコンピュータに接し、なおかつ語学もできて文章も書ける日暮さんは、急激に膨らんでいたコンピュータ出版において貴重な人材だった。そして今に至るまで、デジタル文化に関する翻訳書を数多く手掛けている。

児童書の楽しみ

 もうひとつ、日暮さんが早くから取り組んできたのが子ども向けの本である。SFや偉人伝のほか、ホームズ作品の全訳にも取り組んでいるが、そもそものきっかけは、エージェンシー時代に上司から下訳のチャンスをもらったことだった。

「児童書の世界の経験が豊富な人だったので、その後の人脈づくりにも役に立ちましたし、翻訳についてもいろいろ教えてもらえました」

 たとえば子どもを飽きさせないために改行をふやしたり、分かりやすくするため具体的な表現を使うなど、当時受けたアドバイスは今でも大切な財産になっているという。

 児童書の仕事の良いところとしては、一般向けのものに比べて寿命が長い、つまり長く売れ続けるということもあるが、何といっても嬉しいのが読者である子どもたちから直接反応が返ってくることだという。日暮さんはできるだけ返事を書くようにしているが、そうするうちに読者が自宅にまでやってきたこともあった。

「伝記を読んでくれた子どもなんですが、お母さんに連れられて来たんです。ぼくのところがお母さんの実家の近所で、里帰りのついでに寄ってこられてね。この時はさすがに驚きました(笑)」

 直接的といえばあまりにも直接的な反応だが、その他にも、将来はシャーロッキアンになりたいという手紙もあったとか。現在続刊中の日暮訳ホームズがきっかけとなって本好きになる子どもも、さぞかしたくさんいるに違いない。

下訳と翻訳ワークショップ

 翻訳家が下訳を依頼する理由は大きく分けて二つある。新しく翻訳者を育てる場合、そして自分で全てやるだけの時間がない場合である。日暮さんも大部の資料本などで、時間のない場合には下訳を頼んできた。ありとあらゆるつてをたどって、やってもらえそうな人を探すのだが、最終的にはやはり難しい作業になることが多いという。

「そのままでいいということはまずないですね。もちろん正確かどうかは編集者も含めてチェックしますが、たとえ出来のいい翻訳でも、ぼくの文章と整合性を保つ都合上、どうしてもある程度は手を入れないといけない。場合によっては自分でやるより時間がかかることもあります」

 2年ほど前からは、翻訳学校で教えることも始めた。最近の授業では、日暮さんが実際に抱えている仕事から選んだ文章の一部を課題として生徒に訳させている。そこから優れたものが出てくれば、実際の訳書に反映させるのだという。いわば一種のワークショップであり、結果的に新人育成としての下訳をやっていることになる。自分が手掛けた文章が、出版物として流通することもあるわけで、受講する生徒にとってはそれが励みにもなる。

 一方では、生徒が他力本願になっているのが気になるという。翻訳家になりたい。専門の学校にいけばなんとかなるのではないか。こうした考えが蔓延しているように思える。だが実際には、もともと狭き門であったところに、この出版不況である。かなり厳しい状況にあるのは間違いない。

「こういう話をするとがっかりされるんですけど、でも本当のことなので仕方がない。学校に行って、翻訳の力がついたところで、それで暮らしてゆくには何らかのチャンスが必要なんです」

 そこで日暮さんは、生徒に翻訳だけでなく、プラスアルファの能力を身につけるようにと話している。得意なジャンルを持つ、あるいは本の分析力をつけるといったことだ。その一環として、エージェンシーに届いた原書を生徒に渡してシノプシスを書かせる試みにも協力している。本を客観的に捉える訓練になるし、出来のよいものであれば、エージェンシーや出版社に名前を覚えてもらうきっかけにもなる。そこまで考えてのことなのである。

どれも気に入った本ばかり

 翻訳書の企画といってもいろいろで、出版社が依頼する場合もあれば、翻訳家がいわゆる「持ち込み」をすることもある。日暮さんの場合はというと、

「最初から中身を知っている本で、こちらから推すこともありますし、その逆もあります。ただ、頼まれて引き受けたものでも、最初に読んだ時はまあまあかななんて思っていたのに、やっているうちに面白くなって気に入ってしまう。そういうパターンばかりなんです。だから訳し終えて、そのままあと書きに突入すると、なんだかべたぼめの内容になっちゃったりとか(笑)。でも、やってつまらなかったとか、もう見たくもないとか、そういうものはまったく無いですね」

 そういう意味ではすごく幸せかもしれない、と日暮さんは言う。

 文字通り人生を変えた一冊であり、日暮さんの名前が初めて記された訳書でもある『シャーロック・ホームズ事典』は当時、専門団体から賞を受けるなど高い評価を得たが、そのことを裏づけるように昨年、復刻版として再刊された。これで3度、世に出たことになる。

 今後のことについてうかがうと、

「ライフワークというほどではないですが、ぶ厚くてお金にならない、出版社がなかなか引き受けてくれそうもないもので、訳したい本がいくつかあるので、そういうのをいつか出来るといいな、と。それと学生時代から、研究というとおこがましいけど、ミステリやSFについてあれこれ考えてきて、これまでにも文章をあちこちで書いてきましたが、いつかホームズ関係でこういう本を書き下ろしたい、こういうテーマをまとめてみたい、というのはありますね」

 日暮さん執筆の研究書とあれば、熱心なホームズ・ファン以外にもアピールするに違いない。まとまった時間が必要なものでもあり、実際にはなかなか難しいとのことだが、いつの日かそのような本が読めることを楽しみに待ちたい。

 

インタビュアー:寺町徹(2001年)