翻訳家インタビュー
 
藤本優子さんの巻

藤本優子さん:トップページ画像
ゆっくりはじめたピアノ
本の虫だった子ども時代
本格的にピアノの道へ
本に焦がれて
日本語の勉強のために翻訳学校へ
好きな本、訳したい本へ
訳書リスト ミニ写真集  

ゆっくりはじめたピアノ

 翻訳家、藤本優子さんはかつてピアニストだった。

 パリに留学し、過ごすこと8年。帰国し、室内楽を中心としたピアニストのキャリアをつんでいるさなか、アクシンデントでピアニストとして活動する道をあきらめることになる。それは残念なことだったけれど、だからこそ、私たち読者は、翻訳家の藤本優子さんと出会うことになったのだ。

 では、紆余曲折を経て、フランス語の翻訳家になるまでのお話をご本人の言葉を借りながら追ってみよう。

 最近は、子どもの習い事は小さいうちからはじめるのが一般的に思えるのだが、藤本さんはどうだったのだろう。

「いえ、私は家にピアノがあったので、ポロポロンとおもちゃのように弾いてはいましたが、本格的にレッスンを受けるようになったのは小学校にあがってからです。ですから、それほど早いということはなかったです。ただ、母の姉が音大を出て、町のピアノの先生をしていたんですね。ですから、幼稚園の時には、この伯母からゆるーく教えてもらっていたこともあります」

 なるほど、家にピアノがあり、教えてもらえる人も身近だったのですね。

「母のほうがピアノを習わせたかったんだと思います。母はピアノ曲が大好きで、当時、ピアノのコンサートがあると、きれいに身支度しては出かけていた姿を思い出しますね。おそらく、聴きに行けるコンサートはすべて行っていたと思います。とにかく、それくらい好きだったので、娘の私にピアノに関しての期待は大きかったです」

 毎日、どのくらいの練習をされていたのですか。

「それほどの量ではないと思いますが、小学校に行く前に40分から1時間の練習。学校から帰ってきてから1時間程度くらいです。子どものエネルギーは大きいですから、母は毎日お昼寝をして体力を温存して、私が練習するあいだ、横に座っていました」

本の虫だった子ども時代

 さて、ピアノのことが先になってしまったが、実はピアノより先に「好き!」になったものが本。当時、母親が経営をまかされていた書店には、奥に小さな部屋があり、母親が仕事をしているあいだは、その小部屋で過ごしていた。ひとりで過ごすその時間は、まだしっかりは文字を読めないものの、本に親しむ下地つくっていく。だが、やはり小さい子どもをひとりで部屋に置いておくのには限界があり、ほどなく母親は書店経営そのものから離れる。けれど、書店は同じ場所にあったので、小学校にあがってからも、藤本さんはよく知っている本屋さんとして足繁く通っていた。

 子どもの本に夢中になったのだろうか。

「いえ、あの頃は、子どもの本とかじゃなくても、ルビのあるものも多かったので、読めそうだなと思った本を手にしては読んでいたんだと思います。もちろん、児童書も好きでした。特に英国の児童文学は大好きでしたね」

 なにせ、そこは書店だ。売るほどある本の中で、ある時期たっぷりと過ごしたことは、のちの藤本さんを本の虫にさせるには充分だった。この時から、本はつねに藤本さんの近くにあり、ピアノと共に大事なものとなっていく。

本格的にピアノの道へ

 藤本さんがピアノへの道を本格的に考えるようになったのは、あるハプニングがきっかけだったという。

「親も、最初からピアニストへというよりは、もしピアノの道にすすむのであれば、それほど遅れをとらないほどのレベルにまではという思いでいたようです。それに私自身も、中学時代は、まだ音楽学校に行くんだという気持ちはもっていませんでした」

「けれども中学2年の時に手を骨折したんです。ピアニストには、割とある経験なのですけれど、骨折すると一定期間ピアノが弾けなくなりますよね。そうすると、弾けないからこそ弾きたくなる(笑)。弾けない期間があったおかげで、骨折が治ってからは、ピアニストになるということをそれまでより意識するようになったと思います」

「それと、目の前に壁があればそれを克服したい――負けん気というんでしょうか。そういう性格もありました。弾けない曲があれば、それを弾けるようになりたいんです。後に、自分でも生徒さんをもって教えていると、同じようなタイプの生徒さんと出会う時があります。とにかく、できないことがあれば、それをできるようになりたいと、がんばるんですね」

 ちなみに、がんばっている藤本さんの横には、いつも昼寝で体力温存している母親が見守っていた。

 高校は桐朋女子高等学校音楽科へ。ピアノを引き続け、次のステップを考えるようになった高校3年のとき、リサイタルと公開レッスンを見学した。細かいところをいうと、ほんとうはレッスンそのものに参加する予定だったのだが、いろいろなできごとが重なり、見るだけになった。ピエール・バルビゼ(Pierre Barbizet)、当時50代後半の氏のピアノを聴き、この人に習いたい! と強く思い行動に移す。

「とにかくリサイタルもレッスンもおもしろかったんです。日本ではピアノのソロというより、ヴァイオリニストのクリスチャン・フェラスの共演者として知られている方なんですが。母も賛成してくれました」

 思いこんだ藤本さん。高校の卒業式をさぼって、マルセイユまでピエール・バルビゼ氏に会いに行き、そのままマルセイユにとどまる。2年かかるピアノ科を、学長権限もあり1年で終え、パリ音楽院にすすむことを勧められる。勧められて受けたからといってすんなり通るところではない。倍率10何倍。それでも受けて一発で合格した。すばらしい。

 フランス語はどの時点から身につけたのだろう。

「行ったときは、なにもしゃべれず大変でした。高校では第二外国語でとっていましたけれど、それでは全然ダメですから、行くことを決めたときは、フランスから帰国して時間に余裕のある方を、人づてに探してもらい、その方に3カ月、みっちり日常会話を学びました」

 読み書きはなかなか追いつかなかったが、目の前にある壁はしっかり乗り越えるバイタリティある藤本さん。1年でかなりの会話力を身につけた。そしてパリ音楽院でも、最短の3年で卒業。そこから2年延長して、みっちり室内楽のピアノを学び、その後は別の学校の学生ビザで滞在許可証を取るなどして、結局8年パリにいることになる。

 8年もいると会話では日本語とフランス語のレベルが同じくらいになった。夢もフランス語で見るようになった頃、周囲からフランスでの就職を紹介されるようになる。

 けれど、就職を考えると同時に帰国も視野にいれて考え始めた。
 いま帰らないとずっとパリにいることになるだろう。このままでは、日本語をどんどん忘れてしまう。藤本さんの日本の本が読みたい気持ちが強くなる。幼少の時に根付いた本の虫がうずきはじめた。

本に焦がれて

 帰国。

 日本に帰ってきてすぐは、時間に余裕がある。ピアノは続けていたが、まだ生徒さんもそれほどたくさん抱えていない。いままでにはないほどたっぷりした時間を利用し、念願の日本語の本を読みあさり、好きだった雑誌にせっせと書評や詩の投稿をはじめた。パルコのブックセンターで行われていた「小説 JUNE」(マガジン・マガジン/現在休刊)のフェアでは、掲載されていた小説そのものより、その周辺というか、投稿されたものに熱気を感じ、ますます投稿に熱が入るようになる。

  そんなある日、電話がかかってきた。
 雑誌「小説 JUNE」で長年書評をされていた栗原知代さんから10年ほど続けてきた書評の連載を引き継いでもらいたいという、願ってもないオファーの電話だった。
 これにはもうひとつ話がある。雑誌「小説 JUNE」で知った江上冴子さんの本を買って読んでいたら、ちょうどデータをなくした作品の文字打ちをしてくれる人を募集していた。ちょうど藤本さんが買ったばかりのワープロ機文豪が必要とされていたデータのものだったので、「はい! やります!」と手をあげ、江上さんとつながりができる。その頃、栗原さんは、自分の書評連載を引き継いでくれる人を探していた。江上さんに声をかけ、ライター候補リストを見せたところ、そこに藤本さんの名前が見つけ、彼女と一緒にやりたいと栗原さんにプッシュしたのだ。江上さんから「藤本さん、栗原さんに紹介しておいたわ」と、話を聞いた次の日、それが「ある日」だったというわけだ。
 もちろん、他にもライター候補にのぼったのには理由がある。栗原さんは、毎回のように投稿された藤本さんの文章をおもしろく読んだと同時に、添えられていた手紙がとにかくユニークで強く印象に残っていたという。藤本さんの筆力がうかがえるエピソードだ。

 こうして、ピアノの生活がメインでありながらも、大好きな本に関わる執筆も仕事に加わっていく。1993年には『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』(白夜書房[絶版])の執筆にも加わった。

日本語の勉強のために翻訳学校へ

 執筆に携わるようになったこともあり、藤本さんは、8年におよぶパリの生活ですっかり日本語の力が落ちていることを実感しはじめた。雑誌の書評の仕事も引き受けることから、あらためて日本語を勉強しなおそうと、日仏学院に通い始めるようになる。翻訳学校だと、フランス語も日本語も勉強できる。日仏学園では翻訳の師匠、掘茂樹氏との出会いがあり、ピアノを続けながらも、「翻訳」というあらたなハードルをクリアする楽しみを見いだしはじめた。日本語が下手になったという藤本さんだが、帰国してすぐに文章の才能を見いだされているのだから、筆力があることはまちがいない。翻訳でもめきめきと力をつけていき、学校に通い始めて3年後の1996年に翻訳者としてデビューする。

 いっぽう、ピアニストとしての転機は突然やってきた。年に一度は自主リサイタルを開き、生徒さんも増え、順調にキャリアを積んでいた2002年、ちょっとしたアクシンデントで左目が網膜剥離になってしまったのだ。幸い、やがて目は見えるようになったのだが、室内楽のピアニストとして、舞台でライトをあびたときに楽譜が見えなくなってしまうのは致命的だった。ピアノからまったく離れたわけではないが、このケガをきっかけにピアニストとしての生活からはリタイアすることとなってしまう。
 ただピアノに関しては、現在も、ピアニストとしてのキャリアを生かしながら、リサイタルや公開レッスンなどで来日する音楽家の方々の通訳もこなしている。

 ここまで駆け足で翻訳家にいたるまでの道筋を追ってみたが、こうして、ピアノと本がゆるやかに交差し、現在の翻訳家、藤本優子さんが生まれた。

 デビュー作である1996年刊行の『パリのレストラン』(ローラン・ベネギ/ハヤカワ・NV文庫)以来、現在に至るまで、年におよそ1冊ほどのペースで訳書を刊行している。今年9月には、念願の児童書の訳書も上梓された。子どもの頃から本の虫だった藤本さん。英国児童文学をなめるように読み、いまも児童書は大好きだという。今回訳したのは、フランスの老人、介護などを題材にした本に送られるクロノス賞を受賞した『ルウとおじいちゃん』(クレール・クレマン/講談社)。この本は、孫娘とおじいちゃんのちょっとした冒険ともいえる物語で、リーディングから翻訳を依頼された一冊だ。

好きな本、訳したい本

 いまも、ひとりの本好きとしての生活は変わらず、エンターテインメント、文芸、マンガ、映画など、幅広くアンテナを広げている藤本さん。お好きな作家や作品、いままで訳された本、これから訳してみたい本について伺ってみた。

 お好きな作家、作品を教えていただけますか。

「新刊が出ると買いに走るのは桐野夏生、宮内勝典、原尞、貴志祐介、小池真理子、ほかにも数人います。訳者校正などで心がささくれだったときに読むのは星野智幸、近藤史恵、山本道子、稲葉真弓、こちらもほかに数人いますね。翻訳物もキライじゃないですが、日本語になったものだと、作家だけではなくてどうしても翻訳の選り好みをしてしまうので、読みたいのに読めない本もけっこうあります。逆に翻訳者の名前によっては「ジャケ買い」ならぬ「ヤクシャ買い」することも多いです。
 最近読んでピカイチでおもしろかったのは米原万里の対談集『言葉を育てる』(ちくま文庫)。好みの問題かもしれませんが、米原万里は執筆作品よりもやはり「語ったことば」のほうが段違いで切れ味というか、日本語のもつ凄みが伝わってくるようです」

 ご自身が訳されてきた中で、気に入っているという作品を教えてください。

「刊行ペースがゆっくりだったおかげかもしれませんが、デビュー作から最新作まで、どの本も愛着があります。現時点での代表的な一冊という意味では、まちがいなくヤスミナ・カドラの『テロル』を挙げるべきなのですが、たとえばマレク・アルテの三部作「聖書のなかの女たち」も、フランスではこういうストレートでスケールの大きな読み物も愛されているのだと知ってもらいたいので、いろんなひとに読んでいただきたいですし、ほかにもブリジット・オベールの『異形の花嫁』もわたしでなければ訳せない本だろうとひそかに思っているので、とても気に入っています」

 最後に、これからどんなものを訳されたいですか。

「翻訳に興味をもってすぐのころからずっと変わっていないのですが、「自分でおもしろいと思った本」「読んで元気が出るような本」を訳していきたいと思っています。それと、文芸翻訳をやらせてもらえるようになったからには、いちどは手がけてみたかったのが「ポルノ」と「児童書」です。官能小説のほうは扶桑社文庫で一冊やらせてもらって、ひとまず満足しました。児童書はいちばん「素のままの自分」でできる気がするので、今後も継続的にやっていければと思っています。数年前に「そろそろ、これさえ出せれば死んでもいいくらいの覚悟で、もっている力を出しきって翻訳したいと思える本を」と、内々で言っていたら、まさにそのタイミングでヤスミナ・カドラのリーディングのお話がきました。ありがたいことです。ですから、これからもいままでどおりに翻訳をつづけていくことができれば、それだけでもうれしいです」

 インプットのたくさんある藤本さんには、是非その目利きをいかし出版社にどんどんおもしろい本を紹介してほしい。

 

インタビュアー:林さかな(2008年9月)